シムシャールについて

シムシャールU
シムシャール隊は今頃どの辺りにいるでしょうか。そろそろ悪路にかかっている事と思い ますが。それにぼつぼつ疲れで腹の調子が思わしくなくなる頃では? こちらはのんびり頭の散歩といこうではありませんか。 シムシャールがパミールであるということは、パミールの人達が移動してきたと言うこと でしょう。多分チャプルサン河沿に下ってきてフンザ川に行き当たり、南下してフンザに 入ろうとしたが、フンザの抵抗にあってやむなくシムシャール河に入っていったのでは。 そのころフンザのミールはクンジェラブとうげを越え、タクラマカン砂漠の南端、ヤルカ ンドまで勢力を伸ばしていた。またフンザの対岸、ナガールも南に勢力を伸ばし、ギルギ ットまで範疇に治めていた。こんなことから東へと行かざるを得なかったのではないかい な。民族の移動には難儀が伴うことでしょう。
振り返って我が国のことを当てはめてみると。 信州に南安曇群、北安曇群がある。何故か安曇群はない。代わって安曇村がある。 アズミはアマズミと言われ九州方面の海洋民族だった、と言われている。それがどうして 山深い信濃の国に移動してきたのか。理由は定かではないが、移動ルートに三説あり。 一つには渥美半島から、二つ目は姫川沿い、そして立山針ノ木峠越え。 1は木曽谷を通るにしても、伊那谷を通るにしても、遠すぎる。その間にかなりの抵抗を 受けるに違いない。伊那のの勘太郎さんに追い返されたであろう。> 2は名にし負う濡名川すなわち紅玉翡翠の産地である。それを察して大国主の尊が濡名川 姫を娶っておられる。とてもじゃないがそんな河原をうろつけまい。それに上流には 仁科豪族が目を光らせているに違いない。それならいっそ人気の少ない、立山ルートを、 ということになったのではないでしょうか。このルート、佐々蔵之助成正で有名で あれは初冬の話。夏に通ればそんなに難しくはない。我々だって簡単に通れた。 もっとましな想像でこないのが残念だが、我が手元には殆ど資料らしきものがない。
何方か提供ねがいます。


シムシャ−ル T
概念図がかんたんすぎるので申し訳ありませんが、昨年のパッキリピーク遠征報告書の概念図のスストの町を会わせて頂いたら、お判りになると思います。シムシャールは公式(カラコルム協議会報告)には小カラコルムの範疇にはいりますが、人文的には、パミールになると思われます。昨年同行したシムシャール出のハイポーターアリモサがシムシャールはパミールだと言っていました。このことは昨年行った、チャプルサン川流域に住む人達がワヒー族で、その村の名前にZiarat や Besk−e−benなどありましたが、シムシャール川流域にもZiarat村があり Uween−e−ben や Rezgeen−e−benなどよく似た名前の村があります。ここもワヒー語を話す人達の領域と言うことになると思います。この地の東方地域は今もそうですが、昔は地図の空白部と言われ、全く未知なる地域でした。1937年シプトンやテイルマンがシムシャールパスの東方ブラルド氷河やその北にあるシャクスガム川を探検し、テイルマンはヒスパー氷河をシプトンはシムシャールパスを経て帰路に着いています。
入境ルートはパスー村からシムシャール河を東に溯っていくようですが、南にはモムヒルサール(7343m)やマラングッチーサール(7026m)デイスギールサール(7885m)など7000mクラスの山々が目白押しで、トレックルートもそれぞれの山から落ちる氷河の末端を横切っていくようです。北側には7000mクラスの山はないようですが、それでも取り巻く山々はは6000mを越えています。いずれにしましても、道はガレバの連続、ガイドブックにはガレ場では落石にはくれぐれも注意すること、ルートをはずさないこと、と書かれています。
カラコルム山域に入った方はお判りでしょうが、カラコルムハイウエーでさえ山腹は樹木の生えていないガレ場を削って造ってあり、何時でも落石の危険が待ち受けています。ましてローカルとなると、もう池谷乗越を登ったり下ったりするようなもの、氷河を渡ればクレバス、沿って歩けばシュルンドと上からの礫。このような処をパスーから歩いて三日、危険一杯のこんな処に何を好んで行きなさる。そしてさらに北上して、クンジェラブ峠のすぐ下流のKKH沿いのコシキル(4400m)まで5000mにも及ぶ峠を二つも三つも越えて一週間、ご苦労様に御座います。これ行けない者の僻みかな。
なにはともあれ、隊の皆様のご健康とご成功お祈り申し上げようではありませんか。

飯田 進

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